論題:コンセプトに意味はあるのか

今日で学期末試験は終了。
無事に終わったかどうかは結果が出るまでわからない。
明日からは少し気楽になる。
それで以下、僕が「コンセプト」に対して感じたこと。
僕という主観に基づく判断なので、
これを読んで気分を害する人もいれば、
おお同士よ!という人もいるだろう。

コンセプト最強伝説

建築で設計をするときのキーワードに
「コンセプト」
というものがある。
日本語では「設計趣旨」と訳す。


なぜこういう空間にしたのか?
なぜこの窓はこのようにあいているのか?
なぜここに柱があるのか?


こういった「なぜ」の答えがコンセプトである。



〜というコンセプトでこういう空間にした。
〜というコンセプトでこの窓をこのようにあけた。
〜というコンセプトでここに柱を建てた。


コンセプトは作品に生じる疑問への答えなのだ。


コンセプトは短い単語であったり、長い文章だったりする。
コンセプトには作品を作った人の考えがぎっしり詰まっている。
ひとつの単語であろうと長い文章であろうと、
コンセプトには作者の考えがぎっしり詰まっている。
作者の考えがぎっしり詰まっているから、
どんな「なぜ」に対しても「答え」になることができる。


そう考えるとコンセプトはむっちゃ強い奴のように聞こえる。
作品の骨のような感じがする。
でも、僕はこのむっちゃ強いコンセプトの存在に疑問を抱く。
なぜなら、誰のためにコンセプトがあるのか分からないからだ。

コンセプトは誰のためにあるのか?

コンセプトを設定して、モノをつくる。
それで何かモノができたとしよう。
建築だと、住宅とかビルとかができたとしよう。
そのできあがったものを利用する人がいる。
利用する人は、
カッコイイとかカッコワルイとか、
使い易いとか使い難いとか、
そういったことを思いながら利用するだろう。


僕は思うのだが、コンセプトを設定した意味が結果に反映されているのだろうか。
コンセプトという言葉を介して、モノを見る人はごく一部だ。
ほとんどの利用者はコンセプトという言葉を介さない。
カッコイイかカッコワルイか。
使い易いか使い難いか。
オシャレかダサいか。
最先端か時代遅れか。
そういった観点でしかモノを見てくれていない。
たぶん建築に興味がない人はそういう見方しかしてないんじゃないだろうか。
モノをつくった結果が、限られた観点からの見方でしか評価されない。
作者の考えは全てカッコイイとかオシャレとかそういった言葉での評価で括られてしまうのだ。
僕はコンセプトとは利用する人に伝わるから意味があると考えている。
どんなに緻密なコンセプトを立てても、それが利用者に伝わらなければ意味が無い。
そんな意味が無いものを考える必要があるのだろうか。
上に挙げたような観点でしか、物事が判断されないならば、
緻密な考えとかそういったものを無視して、
ただひたすらカッコイイもの、オシャレなものを追求する方が良いのではないだろうか。
コンセプトなんていう考えは放棄してもいいんじゃないだろうか?

思考の放棄

コンセプトの放棄は思考の放棄である。
考えることをやめるのだ。
「思考の放棄」
というとむっちゃ悪そうに聞こえる。
思考しないことは罪悪であると言われかねないような雰囲気がする。
でも僕は思う。
思考なんか放棄して、すべてを感性に任せる。
感性で何かを構築することが大事なんじゃないだろうか。
僕はそう考える。
コンセプトなんか捨てて、感性に走るべきだ!