ハコモノ建築

「出会う」ことについて建築視点で考えてみた。

人間味がないからハコモノ

公共建築はよく【ハコモノ建築】と呼ばれる。
ハコモノという響きはダンボール箱ティッシュケースを連想させる。
じつに人間味がない言葉だ。
利用者のことを考えない「人間味のない」建築物には【ハコモノ建築】の称号が与えられる。
ではなぜハコモノ建築には人間味がないのだろうか。

ハコに出会う

ハコモノ建築には人間味がない。
ではなぜ人間味がないのだろう。
なぜ人間味が無くなっているのだろう。
その答えを探るために、僕はひとつのハコを用意した。

もしここにひとつのハコがあったとしよう。
座るのにもよさそうだし、何か物を置くのにも使えそうなちょうどいいサイズのハコである。
しかしこのハコは「ある」だけでは、ただのハコのままである。
イスになることもなければ、台になることもない。
ただのハコのままなのだ。
これが建築物で言うところの【ハコモノ建築】である。
使えそうな感じはするのに、ただそこにあるだけで、使われない【ハコモノ建築】の状態だ。
ではこのハコが【ただのハコ】から脱するにはどうしたらいいのだろうか。


その答えは【出会い】である

【ただのハコ】に【人】が出会うと何が起きるだろうか。
出会った人はハコに対して何らかの行動をとる。
その行動がハコに座る、ハコにモノを置くといったことである。
【ハコ】が【人】に出会うだけで、生き生きとしてくる。
何かしらの行動が生まれるのだ。
【出会い】が【行動】を生み出したのだ。
これが【ハコモノ建築】を打ち砕く鍵になる。
ハコモノ建築がハコモノで止まっている理由は【出会い】がないことにあるのだ。

見る≠出会う

ここで多くの人はツッコミをいれたくなるだろう。
「私たちは常に建築物に出会っている。でもハコモノ建築はハコモノ止まりだ!」
このツッコミは正しいようで実は間違っている。
何が間違っているかというと、「常に建築物に出会っている」ということである。
実際に【出会っている】といえる建築物はそんなに多くない、残念なことに。
実は【出会っている】のではなく【見る】【見かける】建築物が多いだけである。
【見る】【見かける】は【出会う】とは全く違う。
【見る】【見かける】だけでは【出会う】には至らないのだ。


【出会う】というのはある【ハコ】と出会い、その【ハコ】に何かしらの行動をとることだ。
もっというと【ハコ】に【目的】を見出しているのだ。
【目的】があるから【行動】が生じたのだ。
【見る】【見かける】はハコに【目的】を見出そうとする行為ではない。
どちらかというとハコをスルー、無視する行為である。
無視してしまっては、ハコに目的を見出すことはできない。

役割を持った建築

では私たちは常に目的を探しながら、建築物を見なければいけないのだろうか?


これは少々要求される。
少なくとも、今の街の状態に無頓着である状態から私たちは脱しなければならない。
街に愛着を持って接する必要があるだろう。
これにより少しでも【出会い】を生むことができる。


しかし【出会い】を生むためにもっと努力しなければいけないのは建築である。
今の都市は【出会い】を生む努力をしない建築が溢れかえっている。
【見る】【見かける】止まりどころか、それさえも誘発しないもので満ち溢れている。


先にあげたハコをもう一度、ここに用意しよう。
このハコは無事、人と出会うことができた。
それはなぜか。
それはこのハコが座ったり、モノを置いたりするのにちょうどいいサイズだったからだ。
もしこのハコが10cm角だったら、使い道に困っただろう。
もしこのハコが1000m角だったら、大きすぎて、ハコなのか壁なのか分からなかっただろう。
10cmのハコも1000mのハコも誰も求めていない。
求めるのは座るのにちょうどいいサイズのハコであり、モノを置くのにちょうどいいハコである。


今の都市にはそのことが欠けている。
ゆえに【出会い】を生み出せないのだ。
求められているもの、望まれているものではなく、資本主義にまみれた【ハコ】しかないから、【ハコモノ建築】ばかりになるのだ。

悲しいハコ

ここまで建築をけなしたが、作られた建築物はとても悲しい建築物だ。
【出会う】ことなく生涯を終えていく建築物ほど悲しい物は想像がつかない。
そんな悲しいものはもう作ってはいけない。