安藤忠雄について考える

学校の方は木曜日からテストが始まった。
昨日のテストでは過去3年間変化がなかった問題形式に
大幅な変更が見られ、ほとんどの人が不意打ちを食らった模様。
僕も不意打ちを食らった一人なわけだが・・・・・・。
直前にノートを見ていなければ、やばかったかもしれない。
 
さて、最近、安藤忠雄の建築とは本当にすごいのかという事を考えている。
なぜ、そのような事を考えたかというと、安藤忠雄の本を何冊か読んで、
安藤氏の建築に対する姿勢というものについて、少し知ったから。
安藤氏の建築への姿勢というのは素晴らしいと思う。
でも、それと彼が作る建築が素晴らしいかどうかは別問題だと思う。
建築家が建築を造るとき、その建築は当然、その建築家の表現の場となる。
建築家はその建築で持って、自らを表現するし、しなければならない。
でも、表現をするだけではいけない。
施主の声に耳を傾け、実際にそこを使う人、
そこに暮らす人のことも考えなければならない。
建築を自分の表現の場としてのみ使って、
施主の要望に全然沿わないものを作ることはあってはならないと僕は考えている。
 
そう考えると、安藤忠雄のは建築を自分自身の
表現の場として使っているだけではないだろうか。
住吉の長屋にしても、光の教会にしても

確かにコンクリート打ち放しであるからこそ、
あれらは洗練された美しさを持つ。
でも、美しさだけが建築ではない。
古代ローマの建築家ウィトル・ウィウスは『建築書』のなかで
建築の3要素として「強・用・美」を挙げている。
「強」は構造
「用」は使い勝手
「美」は意匠
の事をそれぞれ示す。
これらが揃ってこその建築である。
安藤忠雄の建築には「用」が欠け過ぎている。
もっと、使う人のことを考えた建築というものを造る必要があるのではないだろうか。
 
建築家が自分の造った建物に住むという事は、
自宅や自分の事務所を造らない限りないわけで、
最後までその家の住み心地を実際に知ることはないのである。
だからこそ、住み手、利用者の事を考えるという事、
その人たちの立場に立つという事が大事なんだと思う。
 
このことは今後の自戒の念も込めて。
9月から始まる製図の授業で造るものが、自分のものだけにならないように。