宗教の神聖さは残っているのか

今日は弟の堅信式だった。
堅信式とはカトリック教徒の成人式的なものだと考えてもらうのがいいと思う。
カトリック教徒は
洗礼+聖体拝領+堅信
を受けることで立派な一カトリック信者として認められる。
弟は僕同様、生まれてすぐに洗礼を済ましており、
ま聖体拝領も受けているので、
今回の堅信式で立派な一カトリック信者になったことになる。
弟以外にも70人くらいの中高生達が堅信式を受け、立派な一カトリック信者になった。
カトリックの信者として認めてもらう非常に大事で神聖な儀式。
だから、大人たちは堅信式を受ける子どもたちに口酸っぱく、この儀式の大事さを伝える。
でも、なぜだか伝わらない。
僕は伝わらない理由が「若者の宗教離れ」という最近の流行のためだと思った。
しかし、今日、弟の堅信式を見て、それだけが理由のすべてではないと思った。
僕は大人のあり方が問題の一端にあるのではないかと感じた。

堅信式での光景

堅信式は幾つかの教会、合同で行われた。
教会には堅信式を受ける子供の親や代父母*1
そして司教さん、神父さんが来ていた。
堅信式が始まるまでのミサはいい感じの緊張感。
きつくなくゆるくなく、そんな緊張感でミサが行われた。


ミサを終え、堅信式に入る。
すると、その瞬間、いい感じの緊張感が一気に切れる。
あっちでビデオを回して、こっちではカメラでパシャパシャ写真を撮って、
まるで何かのイベントの時のような雰囲気。
これが神聖な儀式の場に合うものなのだろうか?
僕はこれらの行為をしている人たちが不快でならなかった。

個々を見て判断していない、全体で判断している

よくテレビでおっさん、おばさんが
「最近の若者はウンヌンカンヌン」
「礼儀がなっていないだのウンヌンカンヌン」
と言っている。
これらは個々の個体としての若者を見て、そう判断しているのではない。
集団としての若者を見て、そう判断している。


これが大人にもあてはまるということは重々に理解されるべきである。
堅信の大事さを説く大人の努力も全て水の泡になってしまうからだ。
子供だって、大人を個々の個体としては見ていない。
集団としての大人を見て、判断している。
カメラパシャパシャの大人の集団は子どもたちに結構印象深かったはずだ。
彼らの大人に対する印象がカメラパシャパシャになっているかもしれない。
そんな中で進行の大事さを説く声というのはかき消されてしまう。


子どもたちにもっと信仰だとかの大切さわかってもらうためには、
まずは大人がその信仰の大切さを理解しなおす必要がある。

*1:堅信のときは両親以外の人が親の代わりをする